#28

 新井貴浩という選手が広島カープを出ていくと言った時の衝撃は、ほかのどのFA選手ともちがっていた。

 まことしやかにインターネットで語られていたドラフトから入団の経緯がどこまで信憑性があるものかはさておき、入団後、あれだけ「我慢」をした選手が、わたしたちを見捨てるわけはないと思っていた。よく考えれば我慢はわたしたちの身勝手で、同じグラウンドで野球をしていた選手やベンチ以外に強いられたものではなかったのだけど。それが慢心だといわれたら否定はできない。でも、ファンの我慢が選手に何の関係もないように、ファンの慢心だって選手に何の関係もない。

 

 チームの中にいる選手がどう思っているのか。マスコミを通してしか選手を知らないファンはそれをはかる方法をもたない。わたしはチームが好きだ。優勝してほしい、歓喜を味わいたいと思っている。そして選手も同じ思いでいるだろうと思ってきた。確信していたわけではないし、組織の中で何かをする以上、不満を抱かない人はいない。一丸となるというのは嘘だ。なによりあのころチームは間違いなく弱くて、優勝は夢物語だった。だけど、優勝したい、強くなりたいはずだと信じていた。

 それをぶち破ったのが彼だ。優勝したいからよそへいくと言った。わたしの愛したチームではそれができないのだから出て行った。わたしが応援してきた、大好きなチームの所属選手が、大好きなチームを見捨てたという事実をつきつけられた。

 身勝手なファンは身勝手に傷ついて、彼と一連の出来事をなかったことにした。長い時間がかかった。ほんとうになかったことになったのは、2013年のCS1stステージ最終打席だったかもしれない。三振に倒れた彼を見て、けっしてそんなことは思っていないだろう選手たちの前で、わたしのよこしまな復讐心はこっそり満たされたのかもしれない。それが、1年で、これだ。

 

 愛は祈りだと舞城さんは書いたけれど、わたしは、この愛は信仰だと思う。

「新井復帰」というありえない、考えたくもない場面を前にしても、わたしは棄教しなかった。ヨブが信仰を捨てなかったのとは少し違う。もうすこし21世紀的に、わたしは自分と自分の宗教の折り合いをつけている。私の信仰対象は完全な法悦をあたえてくれるわけではないし、「お布施」をしたぶん、自分の心を軽くしてくれるわけでもない。自分の人生にまったく関わりのないなにかに安寧と支えを求めるために、わたしは信じている。それでもチームが好きなことはほんとうだ。

 それをひどくけなした(と、少なくとも私は思い込んでいる)人間に、どうして優しくできるだろう。

 戻ってきた彼に罵声を飛ばす気はない。だいたい何をののしればいいのかもわからない。彼が何を考えているかもわからないし、推測するのも無理だ。打席に立てば声は出すだろう。応援歌も歌うかもしれない。でもそれだけだ。

 

 今は、許す許さないではなく、自分の意思をこえて、どうしてもわだかまりを覚えてしまう。彼が何を言おうと、どう貢献しようと、もう二度と蜜月には戻れない。無心に応援し、彼がホームラン王になって喜んでいたころの自分には戻れない。あなたはこのチームを信じずに出て行ったのだろうと、そして今だってきっと信じきってはいないのだろうと、必ず疑う。全自動で。

 いっそ会見で、恥ずかしげもなく、優勝させに戻ってきたと言ってくれれば、腹は立つけれど、目標達成ができたかできなかったかで彼をはかれるから楽なのになあ。