「この世界の片隅に」雑感

この世界の片隅に」の試写を見てきました。以下は雑感で、後半はネタバレを含む感想です。

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 単刀直入に言うと、とてもいい映画でした。人の生活が少しずつむしばまれて、世界が少しずつむしばまれて、失われたものは戻らず新しいものが芽生える、そういう映画でした。

 私は幼少期に広島に住んでいました。最近もよく広島に行きます。物語の主な舞台である呉には行ったことがありません。でもそういうことは特に関係ありません。事前情報はいりませんでした。原爆や広島や被爆者や、そういったものについての知識もいりませんでした。

 これは変化の映画です。昭和20年8月6日を良く晴れた普通の朝として、あるいは人生のちょっとした変化の一日として迎えた人たちの話です。反戦プロパガンダ映画でも、武蔵や大和がカッコよく描かれた映画でもなく、戦中をとてもふつうに生きた人たちの物語です。かつて祖父母やその上の代が、ふつうの生活からゆるやかに、否応なしに一線を越えた日常に入り込んでしまった、その記録に近い映画です。

 冒頭で描かれていた「ふつう」の生活は、開戦し、戦局が厳しくなるにつれなだらかに、確実に、8月6日に向かって崩れていきます。そしてそこでは終わりません。8月6日、9日、15日を過ぎても、命がある人間はまだまだずっと生きていく、生きていくしかない。誰を失っても、もう軍艦は浮かばなくなっても、主題歌のように「悲しくてやりきれない」としても、変わらず瀬戸内の海はきれいで、アオスジアゲハがとんでくる。70年後も同じように。

 この映画の登場人物はみんな古い広島弁を使います。正直、広島弁に慣れていない人間にすべてのセリフが通じるかといえば、かなり難しいでしょう。でもその言葉の標準誤訳はありません。登場するすべてのことに説明がありません。それは登場人物にとってふつうのことだからです。途中、いくつかハッとさせられるシーンがあります。その数は人によって違います。わたしも、なにか意味がありそうで、残念ながらわからないシーンがありました。それはこの70年に途絶えた何かのことなのだと思い、家に帰って調べました。もう一度見たら、またなにかわからないところが出てくるでしょう。何度か繰り返し見たいなと思います。

 

 こうのさんの話を限りなくそのままに、美しく、そしてアニメーションという形でしかできない表現をめいっぱいに入れて、こうやって映画化されて本当によかったと思います。

 

 以下はネタバレを含みます。

 

 すずちゃんが右手を失って、呉の空襲を見る、あのシーンが一番心に残りました。わたしは3.11のあの日、陸を襲う津波を見て、夜じゅう燃え盛る街を見て、とても不謹慎に美しいと思いました。何もできない、安全なところからそういう風に思うことを心苦しく思いながら、きっと絵を描いたり小説を書いたり映画を撮ったりするような人間は、この風景をなにかにしたくなるのではないかと期待しました。だから「シン・ゴジラ」でゴジラが川をさかのぼる姿に、わたしは快哉を叫んだのだと思います。

この世界の片隅に」では呉も広島もボロボロになります。何もなくなります。その前の姿をずっとすずちゃんは紙に描いていた。でも途中から憲兵があらわれて、間諜疑惑をかけられて、そんなことすらできなくなる。鉛筆もない。すずちゃんは描く方法を失われていき、同時に描きたかった世界がどんどん失われていき、そして描く手段が決定的に失われる。そんなすずちゃんが呉の空襲を見て狂おしく描きたいと思う姿は、禁じられたこと、二度とできないこと―たとえば子供のころにやってしまった残酷な虫殺しのようなことを渇望してしまう、ものづくりをする人間の業が作る美しさがありました。

 自分が腕か目を失っても、やりきれなくても、命がある限りは生きていかなきゃあいけないんだろうなと、それこそやりきれなく思いながら帰りました。

 物を作る人に見てほしいです。